鹿の瞳の中の僕は死んでいるか
子供の頃思い描いた未来の僕は小説家だった。
いまでも変わらない将来の夢ではあるが、中学生くらいの頃の方がより明確にその未来を思い描いていたかもしれない。
僕は田舎で生まれ育った。
野山を駆け回る、をまさしく読んで字のごとくな生活を送っていたぐらいには田舎だ。
そんな田舎で小説を書いてます、将来の夢は小説家です、と言っている中学生は僕一人だった。
周りから書く文章を何度も褒められた。
勉強が特別できるわけでなければ、運動だって苦手。小さい頃から運動神経のいい弟と比べて特筆褒められる点がなかった僕にとってはそれは承認欲求を満たせる唯一つのアイデンティティだった。
高校に進学しても小説家という夢は変わらなかった。
ネットに作品を上げたりもして、それなりにたくさんの人に読んでもらえて良い評価ももらえた。
完全に天狗になっていた。
井の中の蛙大海を知らず、だ。
その後、僕は大学進学の際にその頃気になっていた出版編集も学べて、小説も学ぶことができる芸術大学へ進学することにした。
将来への明るい未来を想像して地元を離れたが、そこで僕は蛙だったことを知る。
僕程度に文章を書ける人間はごまんといることを知って、天狗の鼻は完全に折れた。
特別であると自惚れていた自分が、ただの凡百である事が僕はどうしても受け入れる事ができなかった。
それでも必死で文章を書き続けたが、全く書けなくなった時期があった。どんなに話を書き始めても、続けて書くことができなくなり、どう頑張っても納得のいかない文章ばかりが生産されていく。
ただ、その頃は遮二無二書き続けて、えらい尖った作品を提出することが多かった。どんな形であれ作品を作ることを絶やしたくなかった。教授から難色を示されたりもしたが、あの時期でなければ書けない作品もある。
先日実家の大掃除をしていたら、1回生の時に書いた小説が出てきた。
教授が持ってきた写真を一人一枚ずつ選んでその写真にストーリーを付けるという課題だった。
僕が選んだのは猟師の年配の男が獲った鹿を肩に担ぎ、その鹿の顔を猟犬が覗き込んでいるという写真だ。
僕はこれを犬目線のお話で書いた。
覗き込んだ鹿の瞳の中に見えた死の闇に恐怖を感じた猟犬が、主人である人間に死体になった自分が同じように担がれているところを想像するというお話だ。
教授からは「犬がこんなに哲学的にものを考えるだろうか」と嘲笑されたが(僕はこの総評をいまだに納得していない)。
しかし、改めて自分で読み返してもとても自分の内側からこんなお話が出来上がるとは驚きだ。あの頃、自分のことを平凡な人間だと思いたくない多感だった僕が、ただ無我夢中でリビドーだけに従って書いたからこそ生まれた作品なのかもしれない。
大学時代の最後、卒業制作が小さな賞を取った。文章の良し悪しというより、卒制にあてるべき大事な最後の大学生活の一年間をなぜか仏像を彫ることに費やした自身の実体験を書いたエッセイという、変化球的なところが評価されただけのような気もしたが、それでもこの4年間でぺちゃんこになった自尊心が少しでも救われたような気がした。
お世話になったゼミの教授からは最後に「これからも文章を書き続けろよ」と言われた。
就職してからは忙しさにかまけて、文章を書くことからずいぶん離れてしまっている。
あの頃折れた鼻はいまも筆を握る手を曇らせる。
でも死んだように生きたくはない。将来の夢と聞かれて二つ返事で「小説家」と答えていたあの頃のように生きたい。