【創作】桜道

お題「桜」

 

 

 

 

 外の雨の音が少しだけ静かになった。

 部屋の中、最後に何も忘れ物がないか確認していた僕は、雨が弱まった事に安堵したような、残念なような、複雑な気持ちになる。雨が強ければ、ここを出なくても良いかもしれないと、無責任に思っていた。そんな事ないのだけれど。

 ケータイが震える。ディスプレイを見ると二葉から「もう着く」と簡素なメールが届いていた。それを確認するとほぼ同時に家の呼び鈴が鳴る。メール、送るタイミングが変じゃないか。

 バッグひとつを肩に掛け、自室を出る。他の大きな荷物は既に業者のトラックに積まれ出発していた。自室を振り返ると、残っているのはおそらくもう使わない子供の頃から使ってる物だけだ。小さくなったけど無理して使い続けたベッド、学習机、サッカーボール。何でもなかったその部屋が急に愛おしい。

 玄関を開けるとやはり二葉だった。彼女は右手を軽く上げて「よっ」とだけ挨拶した。僕も倣って同じ挨拶を返した。

 傘立てから一本大きな傘を取り出して開くと、彼女も入ってくる。彼女の手にも可愛らしい花柄の傘があったが、どうやらそれは使わないらしい。

 二人で歩き慣れた駅までの道を歩く。付き合い始めてから、いや、それよりも前から二人で駅まで一緒に登下校していた。だからもう飽きてるはずの道なのに、その道が愛おしくて、寂しくて、僕の足はゆっくりになる。彼女の歩幅よりもゆっくりなそれに合わせて隣を歩く彼女に、余計寂しさを感じる。

 駅まであと百メートル、ここから駅までは桜並木道になる。道の両脇に植えられた桜は圧巻で、時期になると地元の人やわざわざこれを見に来る観光客で賑やかになる。しかし、ここ数日続く雨でずいぶん花が落ちてしまって、雨のせいで人もまばらだ。

 僕らは足元を見て歩いていた。道に落ちて汚れてしまった桜の花を見ながら歩いた。ぐしゃぐしゃになって、アスファルトの灰色が透けて、汚い色になっている。少し上を向けば、まだそれでも枝に残った綺麗なピンク色の花を見る事だってできたのに。双葉は喋らない。僕も、喋らない。

 駅に着いて、一番高い一番遠くまで行く片道切符を買った。見ると、隣では彼女が入場券だけ買っている。改札でお別れを言うものだと思っていたから、まだもう少し一緒にいれるのが嬉しかった。

 改札を抜け、二番線ホームに立つ。あと十分ほどで電車が来る。双葉は喋らない。あと五分。あと二分。二人とも喋らない。

 遮断機の降りる音が聞こえて、二番線へと入ってくる電車がカーブを抜け視認できた。どんどん遮断機の音が近づいてきて、まるで何かの勧告のように聞こえる。一番近い遮断機が降り、その大きな音に紛れてしまうような小声で彼女が「元気でね」と言った。僕も「二葉もね」と返した。

 目の前に止まった電車が大きく口を開ける。僕を夢へと運ぶその電車が、僕らを永遠に引き裂く怪物のように見えた。重い足を上げて、怪物の口の中に飛び込む。

 扉の近くに立ち、彼女と向き合う。伏し目がちで視線が合わない。出発を知らせる汽笛が鳴り、扉が閉まる事を駅員が報せる。僕は一言、「バイバイ」と言った。彼女がハッとして顔を上げた。

 扉が閉まる。彼女の目から一筋、涙が流れたかと思うと、表情をくしゃくしゃに崩して口が動く。何度も何度も同じ言葉を繰り返す。彼女の目からボロボロと涙が溢れる。彼女の口が「またね」と繰り返していた。

 さっき言った言葉を後悔した。彼女が最後に欲しかった言葉は別れの言葉じゃなくて次までの約束だったはずなのに。僕も「またね」と口に出した。もう声が届いていない。

 電車がゆっくりと動き出す。彼女は追いかけてこない。小さくなっていく彼女の姿、その肩が震えてるのが分かった。

 同じ車両に人は少なかった。それでも僕は声を押し殺して泣いた。車窓から見えた桜は、やっぱりまだ花も残っていて、僕らがお互いに見せ合うことのできないハートのような綺麗なピンクだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり