夕暮れ顔(短編)

 教室の外を見ると、外はもうすっかり夕方で、夕暮れのオレンジが中にまで侵入してきていた。教室には僕と恵利子だけだったので電気はつけていない。遅くなる前に帰ろうと話していたので、きっとこのまま電気はつかない。手元のレポート用紙が見えなくなる前に帰るのだろう。

 二月になって三年生は登校の必要がなくなって、教室は常に空になっていた。希望があれば登校しても良いことになっているが、入試の追い込みで生徒たちはほとんどいない。進路の決まった生徒がたまに気まぐれで来るくらいで、僕らもその口だ。

 恵利子は少し前に勉強に飽きてしまったようで黒板に落書きを繰り返している。たまに渾身の出来があると振り返って僕に「これ何か分かる?」と聞いてくる。適当にあしらうと拗ねるので、その都度真剣に考えて彼女の描いたものを当てている。絵が上手なので実際は当てるのは難しくない。美大に進学しなくていいのかと聞くと「絵で食べていけるとは思えないし」といつも寂しそうに笑った。

「僕は恵利子の絵好きだけどなぁ」

「私より上手な人なんて数え切れないほどいるよ」

 そんなことを言ってしまったら誰も夢なんて追えなくなってしまうじゃないか。それに、僕は彼女が夢を諦めた理由が他にもあることを知っている。だからこれ以上は僕からは進学の話をしない。彼女は地元の小さな会社に就職が決まっている。

 彼女は相変わらず黒板に絵を描き続けている。恵利子の方から教室で勉強しようと言ってきたのに。でも彼女はもう課題も何も全て終わらせているから、本当は勉強なんて誘う必要がないことも知っている。恋人である僕との時間を作りたかった、と思うのは思い上がりだろうか。

「私は君の方が心配だよ。一人でやっていけるの?」

 遠く離れた地方の大学への進学が、十一月の推薦入試合格で決まっていた。恵利子も最初進学を希望していた芸術大学であり、僕は映像専攻で進学することになる。同じところを目指そうとしていたわけではなくて、僕が進学が決まった時に彼女も少し前までその大学のことを調べていたことを知った。彼女の好きな画家の出身大学だったそうだ。僕らの住んでいる田舎からは公共交通機関はまともに通っていなくて、高速バスが日に二本しか無く、片道五時間以上かかる。この春から二人は遠距離恋愛になる。簡単に会えなくなる距離に怯えて、いまのうちに思い出を増やそうとしてる僕の焦りが、彼女にも伝播したのかもしれない。

「やっていけるよ。僕は一人でも平気な質だから」

「家事とかできるの?ご飯とか作れなさそう。そばにいたらご飯作りに行けたのにね」

 彼女がご飯を作りに来てくれる姿を想像して、でもそれは叶わない事に気付いて僕は気持ちが暗くなる。

「なんとかなるよ。いまはいろいろ便利なものあるし、ご飯とか家事はきっと一人でも」

「私はいなくてもいい?」

「なんでそうなるのさ」

「ごめん。でも最近考えちゃうの。うち、一応進学校でしょ?友達もみんな地元を離れるし、私だけここに取り残されるみたい。きっと君も新しい環境が楽しくて私のことなんて忘れちゃうよ」

 彼女は笑ってみせた。彼女は自分に自信がない。絵のことも、自分自身のことさえも、誰にも記憶されることなく消えていくのだと信じているのだ。僕はそれを思うと悲しくなる。忘れるわけなんてないのに。頭が、心が目に見える形で開いて、中身を見せられたらどんなにいいだろう。君への愛がどれほど深くて、どれだけ大きいか、きっと君は気付いていない。そして恵利子の悲しみを、僕は全ては理解していないのだろう。誰も相手の気持ちを正確に理解できない。だからこそ、自分の想像より恋人である彼女の恋心が大きいことが僕は嬉しい。

「忘れるわけないよ。僕は距離になんて負けない。毎日電話をしよう」

「電話苦手でしょ」

「恵利子なら別」

「じゃぁ暇な時に電話して。私はいつだって出るから」

「暇じゃなくても電話させて。僕は君の声が好きだし、君と話してる時が一番幸せだから」

「そういう事、いままで付き合った人にも言ってたと思うと嫉妬する」

「恵利子にしか言ったことないよ」

「ならきっと、これから付き合う人に言うのね」

 ここまで卑屈なのはさすがに少しイラっときてしまう。

「僕は恵利子が最後が良いんだけど、君は違うの?」

「私もそうなら良いなって思うよ。でもそう言うと君を縛りつけちゃう」

「僕は君を束縛したいくらい大好きだし、君にもそうであってほしいけど」

 彼女の顔が少し赤くなったように見える。夕焼けの赤色じゃなければだけど。

「恥ずかしくない?そういうセリフ」

「僕恋愛映画とか好きだからなんとも」

 手元がいよいよ見えなくなってきた。僕はレポート用紙を鞄にしまって立ち上がる。彼女も机に置いてあったノートと筆記用具を鞄に入れて帰る支度を済ませる。

 僕自身、これから遠く離れて自分の気持ちがどう変わるかなんて想像もできない。なるようにしかならないけど、いまのこの気持ちを大事にしていきたいと、そう思う。遠く離れても同じ夕焼けを見るのだろうし。

「じゃぁさ」

 彼女は鞄を肩に掛けながら言う。

「恋愛映画みたいな事をしよう」

 そう言ってキスをした。短い、本当に一瞬のキスだった。

「これこそ恥ずかしくない?」

 今度は疑いようのないくらい、顔が真っ赤だった。

 

 

おわり